《本のレビュー》 『世界の[宗教と戦争]講座』 井沢元彦 著

画像う~ん、唸ってしまった。いい本だ。

日本人は、なぜ今でもちょんまげを結っていると
思われているのか。なぜフジヤマを愛し、芸者と
戯れ、侍を家業としていると思われているのか、
胸のつかえがスーッと降りた感じがした。
もちろん、この本にはそんなことは書かれていない。

島国 日本が、世界の中においていかに異様なのか。
彼の持論ではそれは"言霊"と"穢れ(けがれ)"にことのほか支配されている日本人が、世界的に見て他に例を見ないというところに帰着する。なるほど。唸ってしまった。その通りかもしれない。


これを簡単な例で示そう。まず「穢れ」から。

代表選手:割り箸。石鹸で洗い流すことのできない「穢れ」。どうすればいいか。それは、捨てること。
「穢れ」は「清め」でなくすことができる。お葬式から帰った後の、清めの塩然り。
「穢れ」を清めるための手段が「禊ぎ(みそぎ)」であり、「祓い(はらい)」である。禊ぎは水の中に入ってとる。そう、まさに「水に流す」だ。この水に流すのが、実は世界的にみて稀有な考え方であり、行動なのである。お隣の韓国や中国にはこういう考え方がないから、いつまでたっても大東亜戦争の痕を引きずる。もっとも僕は、水に流すのが良いとも思わないけれど。問題は、水に流すことを当然のように相手に求めるところにある。一方で犯罪者、前科者を差別する意識が一番強いのが日本人らしい。それは、日本人は前科者に「穢れ」を感じるからだと。一方、キリスト教が中心の欧米人は、最も重い罪は神に対する罪であると考えているため、前科者であっても、刑期を終えて復帰した人に対しては比較的寛容であるらしい。


次は「言霊」。言葉に霊的な力があるという考え方。
これも例を示すとわかり易い。

明日社長が飛行機で外遊するというときに、冗談で「明日あなたの乗る飛行機は落ちますよ」という。ところが本当に飛行機が墜落してしまった。この場合、日本ではお葬式で「すみません、私が変なことを言ったばっかりに」と謝るのが当然のこととして求められる。でも言った人には何の責任もないから、謝る必要など全くない。ところが謝らないと非難される。

この例は、日本人にはよくあることだと納得される方が多いと思う。楽しみにしている遠足の前日に「明日は大雨だ」とは言ってはならないのである。実はこれが日本人最大の知的弱点なのだ。第二次世界大戦を思い起こしてみると、日本が劣勢であることを認めず、大敗を期したのも、実はこの「言霊」によるものである。


この本は一方で、世界の宗教、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教、仏教、儒教、そして日本人の緩やかな思想である神道をざっくりと理解するのに、とても役立つ。歯切れのいい書き方が僕には受容的だ。ただし、少し深く学んだ知識をもつと、あれって思うところもなくはない。だが総じて、宗教とそれに基づく人々の考え方の違いの理解にはもってこいだと思った。

さて、あなたが海外に旅行するとき、特に欧米に行った際に、もし信仰を訪ねられたら、自分は無神論者とだけは言わないほうがいい。嘘でもBuddhistと言う方がいい。何故なのかは、この本をお読み下さいませ。


ランキングに参加中です。ポチッと↓押して下さると嬉しいです。 m(__)m

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 田舎暮らしへ

この記事へのコメント

とみすけ
2007年03月01日 23:56
>・・・日本人は前科者に「穢れ」を感じるからだと。一方、キリスト教が中心の欧米人は、最も重い罪は神に対する罪・・・

難しい話です。

私にはアメリカ人にとって神とは何なのか,海外赴任中ついにわかりませんでした。たとえばマクドナルドの駐車場,私の目の前で車同士が接触事故を起こしたのですが,双方のアメリカ人が「お前はこう証言しなくてはならない」と主張してくるのです。おそらく「どちらがわるいか」は神様にはわかるはずだし,うそをつけば「お天道様」に顔向けできない,というのが日本人の感覚であり,この「お天道様」というのはアメリカ人にとっては「神様」であろうと思うのですが,アメリカ人は自分の利益を守ることのほうが「お天道様」より大事なようです。結局,相対的,主観的真実を正当化するための方便として「神様」とか「正義」とかが駆り出されているようなのです。もしかすると陪審員も神も同じように「だませる」「いいくるめられる」と思っているのかも。いや,「だます」という意識すらないのかもしれない。

難しい話ですが。
2007年03月02日 00:48
◆◆ 難しい話です... とみすけさん

ご無沙汰しております。
お元気そうですね。

ええ、難しいお話ですね。海外赴任されておられて、ここでいうアメリカ人の方は、一般的なアメリカ人と捉えてよろしいのでしょうか。様々な人種が集まっている国ですから、私が書いたように(といいますか、著者が書いているのですが)一概には言い切れませんよね。ただ、ざっくり捉えると、そういう考え方の人が多いということになるのでしょうか。

難しいです。

アメリカはまたクリスチャンでも、急進的なプロテスタントが多い国ですから、また違った意味での問題をよく起こしますね。ちょっと勝手な行動にでてしまうところは、正義感溢れるフロンティア精神のアメリカ人・・・というだけではないように思います。

クリスチャンの欧米人にとって、日本人と一番違うところは、彼らには本に書かれた聖書という誰にでも共通の物差しがあることのようです。

ありがとうございました。
2007年03月02日 21:13
こんばんは。

ブログ本文、そしてともすけさん、Papalinさんのコメントを拝見して、しばし考え込んでしまいました。

お二人のコメントにもありました「罪」の意識識、日本と諸外国との間にはその認識において大きな違いがあるような気がします。
例えば英語で「罪」といえば"sin"と"crime"の二つの言い方があります。
sinは神に対する罪。
対するcrimeは法律上の罪。
このふたつの違いは日本人の罪意識にはないものだと思います。

日本人にとって「お天道様」は倫理であり、ある意味、法律でもあります。
アメリカにおいて倫理(神)と法律が同一平面状で論じられることはないのではないかしら。
(ここで言う「法律」とはあくまで人間が作った法律のことであり、神と人間との間で交わされた旧約的律法とは異なります)
2007年03月02日 21:15
アメリカ人にとって法律は"crime"を裁くためのものであり、同時に自分を守るものでもある。
駐車場での一件はそう考えると理解できるような気がいたします。
また"sin"を人間の法律で裁くことは出来ません。
時に「教会」が介在することはあっても、最終的にそれは「神と人」との一対一の関係の中でこそ問われるべきことだと私は思います。
そしてこの「神と人との一対一の関係」ほど、日本人の感覚に遠いものは無いのではないかという気もしてしまいます。
2007年03月02日 21:25
>クリスチャンの欧米人にとって、日本人と一番違うところは、彼らには本に書かれた聖書という誰にでも共通の物差しがあることのようです

共通の物差し、つまり座標軸のようなものと考えてよろしいのでしょうか。
時代や状況によって、右に左に振れて、定まるところの無い人間の判断には、絶対に必用な「物差」であると私も考えます。
聖書であれ、コーランであれ、同じ物差に立ち返ることが出来るということはすごいことだと思います。
ただ一つ、忘れてはならないこと。
それは自分たちの物差だけが物差ではないということ。
「物差」は時に信仰であり文化です。
互いの「物差」への敬意、これだけは大切にしたいと思います。
2007年03月03日 00:28
◆◆ "sin"と"crime" aostaさん

本のタイトルほど重くない、いやかなり軽い本であったのですが、そして僕もその雰囲気を壊さないように書いた積もりだったのですが、そうですか、しばし考え込ませてしまいましたか。

表題の件、英語の"罪"には二つの単語があること、知りませんでした。(無知ですねぇ)

こうした使い分けって、本当にものごとがハッキリしていいですよね。illness と sick なんかもそうですね。あぁそうか、日本語だって、かな漢字変換では沢山漢字が出てきて迷うことが多いですね。英語は2者択一、それも定義が明快でいいと思うことがあります。

お天道様が法律ってこともあるのか。そうだね、紙に書かれた物差しがないんだもんね。やけに納得。
2007年03月03日 00:35
◆◆ 駐車場での一件は... aostaさん

とみすけさんの指摘は、crimeがsinに優先してはいないかという点だと理解しました。この本の論調は、何にもましてsinありき・・・だと思います。とみすけさんのご経験だと、そこに引っかかる・・・というものではないかと。

> 「神と人との一対一の関係」ほど、日本人
> の感覚に遠いものは・・・

同意です。僕は思いますけどね。「お天道様にはウソつけない」って。
2007年03月03日 00:42
◆◆ 聖書であれ、コーランであれ...

aostaさん、異議ございません。
時代とか、特定の人に左右されない、自らが読んで解釈する(解釈権というのですか?)権利が、現代では誰もに与えられているってことが素晴しいです。ルターやカルビンの頃の一般大衆はラテン語なんて読めなかった。だから中世、ルネサンス時代のクリスチャンは、自分で聖書を読めず、特権階級である神父にそれを読んでもらうしかなかったということですから、現代は恵まれています。本当は日本語でではなくて、原語で聖書が読めるといいのですけれど、トホホです。

> 互いの物差しへの敬意

仰る通りだと思います。
信仰をもつ人にとって、異教はまだ許される。異端は性質が悪い。箸にも棒にも引っかからないのが無神論者。あ、書いちゃったよ。シークレットだったのに。でも、無神論者を信仰を持った人たちがなぜ嫌うのかは、やっぱりこの本を読むと面白いと思います。僕が知らなかっただけかもしれませんが。
2007年03月03日 09:07
興味ある本をご紹介くださいました。
私も読んでみたいと思います。
藤原正彦さんの『国家の品格』によりますと日本は世界でも独特の文化を持った国で、何でも他国に見習うのでなく、この独特なものをなくさにように維持していくべきというようなことが書かれていました。この本に対する批判もありましたが、私は結構頷いていました。
宗教にも関心がありますので面白そう。
ありがとうございました。
2007年03月03日 10:58
◆◆ 批判もありましたが... tonaさん

コメント、ありがとうございました。
批判は、次の進化形だと想像します。

まずは、日本の文化とか考え方が、欧米をはじめとする諸国とどう違うのか、そしてそれは何故かをこの本で理解する。その上で、日本のそれが素晴しいと思うのであれば、それを維持していけばいい・・・それはそれでよしですね。

考え方や文化や習慣の違いを理解して、その上で国際人として外国人とお付き合いできたら、人間ひとまわり大きくなれるかなぁと、まだ体重を増やしたいと考えているPapalinでした。(笑)
2007年03月03日 20:12
tonaさま

藤原正彦さんの『国家の品格』、私も読みましたが私個人としては藤原さんのおっしゃっていること、そして井沢さんが仰っていること、大きく矛盾はしていないような気がします。
井沢さんとて日本固有の文化を否定しているわけではないですし・・・

この井沢さんのご本を読んで、思い出した本があります。
森考一『宗教から読む「アメリカ」』講談社選書メチエから出ています。
これも面白い本です。
「宗教」に対する日米の認識の違いに驚きます。ご参考までに。
2007年03月03日 23:03
◆◆ 『国家の品格』 aostaさん

読んでますねぇ。
こんど貸して下さい。
CDも本も、たかってばかりです。
ぺこ <(_ _)>
2007年03月04日 09:44
aostaさま
森考一さんの本のご紹介ありがとうございました。井沢さんの本も読んでいませんでしたので合わせて読んでいこうと楽しみにしています。
学生時代の一般教養で学んだ宗教学はすっかり忘れ去りましたが、この頃になって世界の宗教が戦争や習慣や様々な方面に重要なことを知り、そんなことを助けてくれる本に出合えるのが嬉しいです。
Papalinさんもありがとうございました。
2007年03月04日 19:44
◆◆ 一般教養で学んだ宗教学... tonaさん

ヨコレスです。
学生時代に興味深かった講義は、法学とか経済学とか教育心理学とかでした。学部を間違えたかなぁと思いつつ・・・。

この記事へのトラックバック