『小さな村のクリスマス』 (20)  ~ヒラリー編~


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 土曜日の特別練習が終わった後、ヒラリーちゃんが僕にそっと話しかけた。

 ヒラリーちゃん 「ドン・ホセさん、あのね。あのね。私ね。小さい頃だったけど、読んだ本にね。イエス様が十字架に掛けられたときに打たれたのは3本の釘だって書いてあったように思うの。」

 ドン・ホセ 「(^_^;)」

 ヒラリーちゃんは、とても勝気な女の子である。僕など、彼女には到底太刀打ちできない。彼女に話しかけられると、身体が硬直する情けない大人なのである。だから、このときも話しかけられる前から緊張していた。そして案の定、話の中身は強烈だった。ズバッと刺された。

 でも、彼女は一方で物凄く繊細な心を持っている。きっとそういうところを気づかれたくなくて、必要以上に明るく振舞っているのかもしれない。彼女がちょっと甘えた口調で話してくれるときは、精一杯相手である僕の心情を気遣ってのことなのだ。今日も正にそうだった。きっと自分がこれから言うことは正しい。正しいものを正しい!と言われたときに、言われた方は結構傷つく。そういう僕を気遣ってくれた喋り方だったのである。

 ドン・ホセ 「そっかぁ。そうかも知れないね。言われてみると、イエス様の絵は、足は重なって打たれていたよね。きっとヒラリーちゃんの言う通りだね。でも、足は二本だから、2回打ちつけられたんだよ。だから全部で4回打たれたんだよ。」

 小娘相手の必死の応戦だった。僕も子供だから、結構こういう場面で真剣になってしまう。


 釘の数は3本でも4本でもよかった。ヒラリーちゃんが言うように、きっと3本に違いない。それよりは、あの特徴的な八分音符が、イエス様を磔た時の音を表しているに違いないことは、僕の中ではもう揺るぎない確信だった。「ヒラリーちゃんの言う通りだね。」で止めておけないのが僕の子供っぽいところである。そして僕は、その日に家に帰って、新約聖書を読み漁った。


 僕はある方から「使ってないから、よかったら」と、聖書を頂いていた。

画像 聖書には、様々な版がある。僕が頂いたのは【新共同訳】の聖書である。難しいことはわからないが、16世紀の所謂宗教改革でその袂を分かち合ったカトリックとプロテスタントが、20世紀後半になって、幾多の困難を承知で統一の動きをはじめた。これは素晴らしいことである。その流れを汲んでか、日本でも両者の使用している聖書の統一という動きが起こった。多大な準備を重ね、1975年には新しい「ルカ福音書」が先行して刊行され、信者の様子を確認しながら編纂を進め、1987年に旧約・新約全てが完成された。僕が戴いたのは、その訳によるものである。神聖なるお方がなされたことだから、美しい敬語が用いられている点、そして、他の版ではいささか意訳とも思われる行き過ぎた、あるいは抽象化しすぎて何を言ってんだかハッキリわからない言葉遣いに疑問を感じていた僕は、聖書を買うなら【新共同訳】と決めていたので、とてもありがたかった。

 かなり本題からそれるが、僕はこの信州諏訪という昔から理屈屋が多いといわれる地に生まれたせいからか、ご他聞にもれず結構理屈っぽい。納得したらドンドン前に進むが、疑問に思ったままだったり、ひょっとしたら踊らされているのではないかと疑うと、牛車の如くである。格好良く言えば、それはものごとの本質を見極めたいと思っているからかもしれない。だから、『全ての教えは聖書にある、聖書に立ち返って、それを正しい解釈で学ぼう』とする考えに基づく動きは大歓迎なのである。本当に理屈っぽいなぁ。(笑)

 この【新共同訳】の聖書の便利なところは、書かれている内容に沿って、小見出しがついていること、そしてその小見出しは内容の要約になっている点である。だから、ヒラリーちゃんに言われた「イエス=キリストは3本の釘で打たれた」ことについては、"十字架"をキーワードに新約聖書の小見出しを探せばよかった。

 その結果、聖書には --- 正しくは私が使っている新共同訳の聖書には --- イエス=キリストが何本の釘で打たれたのか、更に正しく言うなら、釘で打たれたのかどうかの記述もなかった。何とも凝り性なドン・ホセなのだが、結果はどうでも良かったのである。ただ確認しておきたかっただけである。


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画像 僕の軟弱なところは、そうして調べたことを、自分だけ知っていればいいのに、いとも簡単に公言してしまうことだ。翌日曜日の礼拝の後の練習のときに、そのことについて話してしまった。3本でも4本でもどちらでもいいと思っていながら、心と裏腹の言動。まだまだだ。

 でもヒラリーちゃん、僕は君の揚げ足をとったのではないからね。君からヒントをもらって、調べまくった。そうして聖書を少なからず読むことができた。感謝してる。



 そんな僕に、ヒラリーちゃんが教えてくれた。彼女はきっと恥ずかしかったんだろうな、言い淀んでいるヒラリーちゃんに代わって、お母さんであるミレッラさんが楽しそうに口火を切った。

 ミレッラさん 「あのね、今朝この子が話してくれたんですよ。お隣の町の駅近くに、よく行くところで、××というところがあるんですけど、そこでヒラリーとシャルロット、そして私が、一緒に何かを演奏している夢を見たんですって。そしてその中にドン・ホセさんもいて、一緒に歌っていたんですって。 (^-^ ) ニコッ」

 ヒラリーちゃん 「まったくもう、ドン・ホセさんったら、ずうずうしく私の夢の中にまで勝手に入ってくるんだから。 (-h-)ブツブツ」

 ドン・ホセ 「そうだったの、それは悪かったなぁ。 _(._.)_ ユルシテ」

 僕の制御不能なところの話だったけれど、何だかとっても嬉しかったよ。

                                        つづく



【注:登場人物・団体はすべてフィクションです。】
~~~ 感動的な本番! 物語は着実に本番に向かって進む ~~~

【写真】 教会のある原村のペンション・ヴィレッジのイルミネーション。


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この記事へのコメント

2007年01月09日 07:34
天心欄間と言う言葉がぴったりのヒラリーちゃん。
一緒にアルト・パートを歌っていていつも励まされました。
彼女は全身でリズムをとりながら歌います。そして私が苦手なところが近くなるとそれとなく合図をしては注意を促し、そこを無事クリアすると、にっこり微笑んで目を輝かせる。
 いつも右隣で歌っている彼女が、何かの都合で練習に出られないときはなんとも寂しい思いをしていました。
行詰ったとき、娘と同じ年の彼女に「ぜんぜん大丈夫だよ。アルトにはキャスリーンさんが必用なんだよ!。ちゃんと歌えてるじゃん!!。」とあのとびっきりの笑顔で言ってくれた言葉を思い出しては、萎えそうになる自分の気持ちを引き上げていました。ある意味では彼女がいたから、アルトを続けられたのかもしれません。

ヒラリーちゃん、ありがとう!!

2007年01月10日 00:32
◆◆ 近くなるとそれとなく合図... aostaさん

あの娘は実に勘がいいというか、飲み込みはいいし、申し分ないですね。そうですか、パート内でそんな美しい姿もあったのですね。

天真爛漫・・・でいいんですよね?
お急ぎaostaさんと見ました。
前のコメントでは、プパーリンというサブネームも頂きましたので・・・。

aostaさん、『小さな村のクリスマス』/aosta編を続編として執筆なさいませんか?

(^-^ ) ニコッ

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